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因島自由大学発足ストーリー

民学の会から生まれた「因島自由大学」

(因島自由大学世話人・大出俊幸の著「惜春譜」より抜粋)
 
 あれは民学の会の研修旅行だった。尾道の寺社めぐりを終えて、宿舎の
いんのしまロッジ(現ホテルいんのしま)に着き、ホッと一息入れていたら、
かつての教え子たちが次々と集まってきた。
 
 私が大学を卒業したのはアンポの年(1960) の2月。その年の6月にアンポの大波が寄せ、テレビは連日そのニュースで持ちきりだったが、テレビを持たない私はカヤの外。ホームルームや道徳の時間はいつも裏山の村上水軍城址に行き、子供たちと遊び呆けていた。彼らと別れて30年の年月が流れていた。
 
 この修学旅行で対岸の生口島から因島を眺めたとき、なぜか美しい島・因島に涙がでるほどいとおしい思いを抱いた。その夜、民学の人たちとかつての生徒たちは呑むほどに盛り上がっていた。その時、私は立ち上がって、“因島自由大学”を創りたい。年一回、外部から講師を招いて講義を聞き、翌日は日本各地から訪れた人たちと課外活動として瀬戸内海の文学・歴史・美術散歩をしたい。授業料は一人2,000円にしたい。と一気に話した。ついては誰か事務局長を引き受けてほしいと。
 
 間髪を入れず、「ハイ、私がやります」と肥料商を営んでいる岡野恒ニクンの手が上がった。思えばこの時が因島自由大学の誕生だった。私は東京に帰ってから、さっそく呼びかけ文を書いて民学の会を中心に知人・友人に参加をお願いした。

 

「故郷は遠きにありて想うもの そして悲しく歌うもの」
と北国の文士は詩に刻んでいます。そして、続きます。
「よしやうらぶれて、異上の乞食となるとても、帰るところにあるまじや」
はたしてそうでしょうか。光と風と波に包まれた瀬戸内の島・因島は、今も涙が出るほど美しい島です。そこで育ち、そこで生きてきたのです。昨日に続く今日があり、そして明日があるのです。そうした中で、人間は智恵を持って生きてきました。私たちは「井の中の蛙、大海を知らず」にならないために、今、因島自由大学(インノシマ・フリー・カレッジ)を創ることを宣言します。

 
 共体的には自立経営を目指すために、

  1. 年一回、外部講師を招いて講義(講演)を聞く会を開く。
  2. そのために一人2,000円(授業料)を募り、最低200人から始める。仮に、因島自由大学二〇〇人委員会と称する。

 
 今までに講師としてお招きした先生方は、

第一回

加地伸行先生(大阪大学名誉教授、中国哲学)「日本人と儒教」

第二回

今江祥智先生(児童文学者)「友達100人できたかな」

第三回

童門冬二先生(作家)「歴史に見る地方からの発想」

第四回

古川薫先生(作家)「毛利元就と村上水軍」

第五回

遠藤順子先生(作家・故遠藤周作夫人・エッセイスト)

「二一世紀への祈り―夫・遠藤周作とともに」

第六回

沈壽官先生(薩摩焼き宗家一四代、大韓民国名誉総領事)「陶房雑話」

 
 と続いている。(これ以後の講義についてはコチラをご覧ください。)
 
 自由大学という名の自主講座、あるいは官制講座は全国あちこちにある。だが、本当に“自由”であるためには、

  • 経済的に自立していること。
  • 講師の選定及びテーマは完全に自由であること。

が大切になってくる。よくある教育委員会の後援とか、市の補助金とか、会社あるいは宗教団体等々からの援助があれば運営は楽かもしれないが、それと引き換えにかけがえのない“自由”を失う。学ぶということは限りなき自由の中にしかありえない。だからあくまで一人2,000円の一年間の授業料でたくさんの人に学生になってもらって運営をしていきたい。
 
 “自由大学”という発想のもとには、イタリアのボローニャで10世紀に始められた“ボローニャ自由大学”が私の心の片隅にあった。ボローニャ自由大学は町の人々が作った大学と記憶している。井上ひさし氏の一文から借りると、
 
 第二次大戦で敗れたイタリアは各都市が生き抜くために必死であった。ボローニャでは市民が、“四つの誓い”を立てた。

  1. 復興のためには人手がいる。女性たちにも働いてもらわねばならない。そこで女性一生が働ける環境を作るために、保育所を増設する。
  2. 町の中心街に残っている歴史的建造物はそのまま残し、郊外の緑を確保する。
  3. 「投機」を目的とした土地や家の売買をしてはならない。
  4. 工場が大きくなり、社員が2000人以上になった場合は、その会社は分散する。ボローニャは精密機械で世界的に伝統がある町だった。

 
 こうしてイタリアの地方都市ボローニャは、1000年の伝統を持つボローニャ自由大学の精神を受け継いで、豊かな都市によみがえった。
 
 ところが、何かが足りない―と町の人たちは考えた。そして大学と共同で演劇の町にしようと考え、1960年頃俳優。演出家のダリオ・フオーを招き、今では40万都市ボローニャに20の劇場がある演劇の都市になっている。1999年、ダリオ・フオーはノーベル文学賞を受賞。10世紀に世界で初めてつくられたボローニャ自由大学の町は今も生き生きと活動している。
 
 因島自由大学がせめてボローニャ自由大学につらなる山脈の最後尾を走り続けることを願って私も走り続けていきたい。
 

(「民学のたより」2001年)

惜春譜(1960-2004)
平成16年8月15日発行
著者 大出俊幸
装丁 幅雅臣
制作  パビルスあい

大出俊幸(おおで・としゆき)略歴

 

昭和12年2月3日

広島県因島市重井町に生まれる。父・徳光、母。松子の第三子、次男。

昭和20年8月15日

重井国民学校三年生。家が農家なので、毎日農作業の手伝い。

昭和30年2月

因島高校卒業。大学受験で失敗、農業の手伝いをしながら家で浪人生活。

昭和31年4月

京都大学文学部入学。文学部三組で加地伸行、江坂彰、稲垣武、岡本利男、大原誠、坂崎彰、岡崎満義、砺波護、西川祐子、宮城公子、江口浩、松成武治さんたちと一緒になる。

昭和35年2月

京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業。

昭和35年4月

広島県因島市田熊中学校教諭となる。

昭和37年8月15日

浜原佐和子と結婚。

昭和39年9月

日本読書新聞に入社。

昭和42年12月

學藝書林の創立に参加。『全集・現代文学の発見』(全17巻) 『ドキュメント日本人』(全10巻)『伊藤野枝全集』(全2巻)等々の編集。

昭和46年2月

新入物往来社に入社。

新選組シリーズ、「日本史総覧』(全9巻)『武功夜話』(全5巻)、秩父事件シリーズ、「人物すべて」シリーズ、「県別不思議事典」シリーズ、「幕末維新」シリーズ、「ユニーク美術館。文学館」シリーズ、「一族」シリーズ、「一〇一の謎」シリーズ、『世界宗教用語大事典』『日本女性史事典』『日本陸海軍事典』『江戸東京湾事典』『江戸東京坂道事典』雪二百藩藩主人名事典』(全4巻) 『戦国大名家臣団事典』(全2巻)等々の事典多数。この間、本の会、民学の会、新選組友の会、八足会、史遊会、因島自由大学、東葛出版懇話会、近藤勇忌、上方歳三忌、沖田総司忌、戊辰役東軍殉難者慰霊祭等を主宰し、流山博物館友の会、常総歴史研究会、仮面の会等に参加。
平成16年7月

新人物往来社退職。

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